天草の概況と歴史

天草は九州本土中央部の西側に寄り添う群島で、上島、下島の2島を中心に大小百二十余島からなる。北は有明海を挟んで島原半島に向かい、東は八代海を挟んで九州本土に対し.南、西は天草灘を経て東シナ海に面している。東西48km、南北44kmにわたり、総面積は889km2である。気候は 黒潮暖流に育まれて温暖であるが、地形は険しく全島重複する山で、平地はほとんどなく水流も少ない。したがって古来、漁業は豊かであるが農耕に適さない。全島に岩山が多い故、石材資源が豊富で石材,陶石材の生産業の歴史を持っている。大小様々な島々が海に浮かび複雑な地形が織り成す景観は美しく、豊かな漁獲と合わせて、この地を海洋観光の名所とし三市十三村の行政区画があり、人口は169,000人(1985年)であるが、離島のハンディから過疎化が進んでいる。1966年に九州本土との間に五橋が完成して以来、人口の減少率は低下してきているが、本土との直結により第一次産業が中心だった産業構造は大きく変化し今後の産業経済の方向が現在深刻に模索されている。

=歴史=

天草諸島一帯は海洋国日本の中で最も早く人の住み着いた地方で 縄文遺跡が特に多い。中世以前(13世紀以前)の天草の歴史を語る資料はほとんどない。中世から戦国期まで、天草周囲の諸豪族、諸大名の支配と盛衰に翻弄されながらも国衆と言われた天草の人の諸豪族(天草五人衆)の下に比較的よくまとまり、険しい自然と戦いつつ生きてきた。古来より天草は海人族の居住基地であり、その地勢上、大陸からの渡来、漂着の事実も多く誌れている。天草五人衆さえもその遠祖は中国の漢の高祖の末孫が渡海、漂着して定住したと、後の歴史書に誌されたりしているが、この大陸や南方との海上交通上の利便性と海の民の伝統とか歴史の上で実際に特色のある動きを始めるのは、14世紀に入ってからである。 当時より東シナ海には中国、朝鮮の沿岸を半略奪的に”貿易”して廻る倭寇が活動しだしたが、天草も又基地となり、倭寇は17世紀の日本の鎖国令まで続いた。この間16世紀には、西日本の諸大名の貿易熱が高まり、倭寇と公的貿易船が出され、中国船が天草にも入港した。 だが、天草にとって、歴史の上で最も大きな影響与えることになったのは、同じ16世紀の半ばに同じ貿易目的で来航したスペイン、ポルトガル船がもたらしたキリスト教の伝来である。1566年のルイス・アルメイダの天草宣教開始以来、天草五人衆の先導もあって、瞬く間に天草全島にキリシタンが溢れるように増え、天草は日本におけるキリスト教の中心地となった。その後キリシタン迫害が始まり、徹底した弾圧と圧制に耐えかねて、天草農民が一斉に蜂起し天草島原島原の乱(1637年)で幕府をれいかんさせるに至る。この一揆では、天草、島原の農民37,000人が殺害されたが、そのうち14,000人が天草人で、これは当時の天草の人口の半分以上にあたると言う。乱後、天草は幕府直轄の天領とされ、強制的に神仏の復興と保護が計られ、以後江戸期230年間キリシタンに対する徹底した監視と弾圧が行われていたが、多くのキリシタンが潜行した。1805年には天草下島西部で5000人の潜行キリシタンが発覚している。江戸前期の天草は天領として幕府の厳しい監視下に置かれ、代官鈴木重政の善政もあって一応平穏ではあったが、後期には一揆が頻発している。江戸期に於る天草で特筆すべきは、類を見ない急激な人口増加で、このことが農耕地味貧しさと相まって、江戸後期から今日近くまで、出稼ぎの多さとして天草史の上での特徴にまでなっている。

=松島町の概況と歴史=

概況

天草郡松島町には天草上島の東北端に位置し、西は有明町、南は栖本町と倉岳町、東は姫戸町に隣接する。 北の海に面し、大小30の島々を挟んで、大矢野町に通じ、九州本土に至る。町域のほとんどが山間地で、干拓地を含めても、平地はわずかである。老岳山に源を発する教良木川が諸支流と合流して、食江川となって、町域の中央を北流し、有明海に注いでいる。北の海岸線の一帯はリアス式海岸のため天然の良港がいくつも形成されている。昭和30年の三村合併にあたり、海を望む景観が、日本三景のひとつ宮城県の松島に似ていることから天草、松島町と命名した。 南北12km、東西8km、町域面積は52.64km2,総人口は9623人(1990年) 町木は松、町花はミツバツツジ、町鳥はメジロとされている。主産業は漁業と山間地農業であるが、特産品として、養殖真珠、石材がある。北の海岸線と島々の一帯は、雲仙天草国立公園に指定されており、観光地として 人を集めてきたが、1966年に天草五橋が完成し、”天草パールライン”と称して飛躍的な観光客の増加を見せた。五橋の内 四橋は松島町にあるところから、当時松島町の観光産業は大いに伸長し、さらに1977年に温泉の掘削に成功して松島温泉を誕生させ、集客力の向上を計ってきたが、双方共一定の鎮静を見た現在、天草全島のこれからのあり方との関わりの中での新たな観光戦略の再検討が必要とされている。

 歴史

考古学上、松島町は隣接する大矢野町を含めて、天草で最も古墳分布の濃密なところで、この地域が古代より天草の中心であったことを示しているが、歴史上の天草の古代を知る資料は無い。出土品の数々から、この地域の海人族の繁栄を類推するばかりである。中世については、町域内に合津、内野河内、教良木の3つの古城跡があり、特に内野河内城は城壁の原型が比較的よく保たれているが、いずれもその歴史を知る資料は無い。中世末期から、この地域の天草五人衆の一人、大矢野氏の勢力下にあったが、1589年の天草合戦で五人衆が豊臣軍に破れて滅亡した後、天草全域はキリシタン大名小西行長の支配下となり、関ヶ原の合戦での小西氏の滅亡後は肥前唐津藩寺沢氏の支配となる。この寺沢氏の悪名高い暴政に対して、キリシタン宗徒と農民とが決起して、天草島原の乱となる。天草の乱の震源地は大矢野(現大矢野町)と上津浦(現有明町)であった。当地域は両地の中間に位置し、中世来、大矢野氏に属して来たところから,乱への参加者は多く、住民のほとんどが参加し、島原に渡り、原城に籠って玉砕した。非参加者は御所ヶ浦に逃避した。

乱後、大矢野島と上島北西部一帯は無人の地と化し、幕府により、他国からの入植、移民が計られた。当地域の住民はその時点でほとんど入れ替わったとみてよい。一方、天草全土にキリシタン根絶のため寺社復興と保護政策が敷かれた。その結果として、現在では松島町にはキリスト教の信仰はほとんど見られず、隣地大矢野町においても、天草島原の乱のシンボルだった天草四郎の出生地であるところから、その史跡と記念公園とが 天草観光の客を立ち寄らせるばかりである。江戸後期に於ける天草の一揆の多さについては指摘したが、7度(打ちこわしは6度にわたる一揆の内3度はこの地域より起こっている

教良木の概況と歴史

天草郡松島町教良木地区は松島町の中央部を流れる倉江川の支流、教良木川の上流の山間に、小さく開けた盆地を中心にした山岳の一帯である。(一部枝里が倉江川沿いに北方の海に通じている。)松島町の政治、経済の中心が北の海岸地下に集中して賑わいを見せているのに対し、最南部に位置する山間の静かな地区であり、町唯一の高校が置かれていることと、この地区の古くから今日まで歴史的伝統の深さを考えれば、松島町の文教地区といえよう。教良木の里は、狭くとも、天草では最大の山間盆地であるが、海岸から入り込んだ峻険な山々に四方を囲まれた地であるが故に、近づくにも不便だったところで、古来より天草の秘境とされてきた。 山々には現在でも自然林が多く、天草らしい自然がそのままよく残されている。松島町花のミツバツツジも多い。地元に樹木に覆われた山肌の各所に新生代第3紀、白岳層の砂岩が露出している松島会津、教良木地区は、本渡市下浦と並んで天草の有名な石材産地であった。現在採石場は、倉江川の中、下流までに停まっており、教良木の里や内野河内地区にまでは及んでいない。

歴史

教良木の地名の由来には、いくつかの伝承があるが、いずれも神話時代の説話である。日本民族学の祖、柳田国男氏は明治45年(1902年)に教良木=清らかな木(神の依代となる聖なる木)説を出したが、昭和30年(1955年ごろに前説を訂正し、清。ラギ”祖先の住む根の国“。この世の外の隠れ里。としている[松島町史])いずれの伝承、説にしても 〝清浄な霊地、聖地“ を言い表している。

里の西方には天草第2の高峰、老岳(586m)がそびえ、海人族の神、猿田彦が老岳大明神として祀られている。他にも、教良木には、天草の他の地域以上に民間伝承の説話や庶民信仰の事績が、現在も多く伝えられ遺っている。鎌倉・室町時代にかけての沢山の五輪の塔や宝篋印塔、室内時代の六地蔵幢、教良木八十八ヶ所霊場など、仏教関係の実績も多い。教良木の人々は古来より一貫して神仏に対する信仰を守り続けてきてようである。 そのことは、あの天草の乱に当っても、現松島町域の他の村の人々が挙って参加したにもかかわらず、教良木からはほとんど参加していない事実(したがって子孫は続いている)や、松島町史に特別にその民族が特別に取り上げられているように、先祖伝来の信仰から生まれ伝わる、生活規範を、現在もよく守り伝えていることからもうかがえる。教良木の里は松島町と言わず、 天草の中でも最も神仏に近くして親しんできた地域と言えるだろう。